浜松の北部、天竜区に広がる通称“天竜美林”は、奈良県の吉野、三重県の尾鷲と並び「日本三大人工林」の一つに数えられています。
浜松の面積は 15.6 万 ha、そのうち森林が 10.3 万ha(66%)を占めています。民有林はその8割の 8.2万 haで、人工林がさらにその 8 割の 6.2 万 haです。人工林の9割は針葉樹(その多くがスギ)です。
天竜の森の始まりは室町時代の文明年間(1469~1487年)で、春野町にある秋葉神社境内林としての植林記録が最古です。その後、元禄9年(1696年)、水窪町・山住神社の宮司が熊野からスギの苗木3万本を持ち帰り植林したことで本格的な林業が始まりました。宮司は一代のうちに 36 万本の植林を行ったといわれています。
江戸後期には青山善右衛門が現れ天竜の林業を近代化させました。善右衛門は屋根に使う柿(こけら)板を創始したといわれ、共同購入した大型船で江戸に運ぶ大規模な木材流通システムを確立、江戸市場を席巻し「材木王」と呼ばれたといいます。
しかし、江戸末期になると幕府の御用材需要が高まり、天竜の森林資源は減少、土砂崩れが頻繁に起きるようになりました。天竜川にも大量の土砂が流れ込むようになったのです。そこで明治時代になると金原明善が天竜川の治水工事と共に天竜の植林事業を行いました。
急峻で流れの速い天竜川は二俣近辺を頂点とした広い扇状地を形成してきました。そして大雨の降るたびに扇状地上で流れを自在に変えるため、昔から頻繁に水害をもたらし「暴れ天竜」と呼ばれてきたのです。特に幕末の森が荒れ始めた時期には多くの水害が発生しました。明善の生まれ育った安間村も洪水に飲み込まれたことがあったのです。
金原明善は暴れ天竜を鎮める治水事業に全財産を投げ打つ決意をしました。その人柄に対する明治政府の評価も高く、明善が陳情に訪れた際には内務卿だった大久保利通がわざわざ面会に応じたという記録が残っています。金原明善は郷土の偉人として今でも尊敬されています。
明善は「植林に投資するのは銀行預金と同じ」「治水の基は水源涵養林にある」と述べ、官有林759haにスギ、ヒノキの苗木292万本を植えたほか、並行して隣接する山林1200haに約400万本の苗木を植えました。明善は作業員と共に山小屋で暮らし、率先して苗木を担ぎ、急斜面に一本一本植えていったと伝わっています。
さらに植林したスギ、ヒノキが収益化するまでに長い年月が必要なため、地元住民の当面の収入源として和紙の原料となるコウゾ、ミツマタの植栽なども行いました。明善は天竜地区の多面的な産業基盤を整備していったのです。
今、天竜地区は戦後の人工造林ブーム期に植林したスギが収穫期を超えたままになっているという大きな問題を抱えています。スギの手入れ、具体的には間伐を行わないと木が十分に根を張れなくなるのです。すると大雨や強風によって地滑り、土砂崩れが起きてしまうのです。今、天竜美林では災害リスクが高まっています。天竜美林を守ることは浜松の将来を守ることでもあるのです。